ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

哲学ってどこにあるの

哲学がなにかよりも、哲学という営為がどこにあらわれてくるかのほうが気になる。たとえば、文献研究をメインにして哲学をやり、哲学史に貢献する人間のなかに、だれだれの哲学ということば遣いをするひとがいる。こうしたことばから、「哲学はあるひとの思索のなかに現れてくる」とか、「哲学はあらゆるひとの思索のなかに現れてくる」とか考えていいのか。すなわち、あるひと、もしくは、あらゆるひとの思索のうち吟味に耐える部分が哲学と呼ばれるのか。あるひとの考えはそのひとのなかになければならないというのを考慮すれば、特定の哲学的思索がだれかのなかに現れてくる、だれかのものであるのは当たり前と言えるかもしれない。
でも、よく考えてみれば、わたしたちが哲学に触れる経路の大半は本だとか論文だ。だから、哲学が宿るのは文字列のなかだと考えるのはふつうのことではないのか。いくらプラトンが会話を主軸とした文字列を組織して、哲学を表現したからといっても、その対話篇は、かなりよく練られた文章であって、発話や考えだけではない。その所在はひとではなくて、紙の上だ。この場合、さきのだれだれの哲学ということばは、だれだれのなかに哲学があるのではなく、だれだれの書いた文章のなかにあるし、それがだれであってもよかったと解釈してもいいかもしれない。ただ書いたのがその人のものだったというだけで、名前を冠する権利をもらったにすぎない。著作権がだれかに所属することはあっても、哲学はだれか特定の個人に所属するものでもない。
しかしながら、たとえば、アウグスティヌスの思索が現代のわたしたちが思い付くようには思えない。というのも、かれがそのように考えなければならない環境が現代にもそのままあるわけではないからだ。すなわち、問題状況をわたしたちとかれではすっかり共有しているわけではない。それでも、そうした問題状況が実際的に特定の個人にしか生起しないと言えたとしても、哲学は特定の個人の部分でしかないという想定には反対したい。