ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

「ふたつのドグマ」はカントを殺せたか

ぼくは、元来、恨みがましく根にもつ性格なので、某フッセリアンの「「ふたつのドグマ」は、カント的な哲学に終止符をうった記念碑的な論文であり、それを大学院生が知らないのは危機的」という講評にかんして文句を数年越しにつけていきたい。
カント的な哲学がなんなのかはおいといて、まずは、カントそのひとについてのクワインの言及はどうか見ていこう。クワインは、カントの「分析/綜合」の区分にかんする規定に、比喩的だとして、検討すらしていない。クワインからすれば、主語の概念に述語が含まれているってどういうことやねん、どう確かめんねや、形式的なしるしは出せんのかいくらいのきもちっぽい。なので、カントに直接ダメ出しして、カントの持つ考えを引き継ぐ考えを「ふたつのドグマ」で退けているとは言いがたい。
つぎに、カント的な真理の種類分け「アプリオリに分析的/アプリオリに綜合的/アポステリオリに綜合的」を「ふたつのドグマ」で退けられるか思い返していこう。当該論文での目的は、「アプリオリ/アポステリオリ」と「分析/綜合」の外延が一致して、アプリオリに分析的な真理とアポステリオリに綜合的真理のあいだに厳格な境界がひけるときに、それを前提にして立論される還元主義を論難することにある。だから、直接の論敵は、「経験主義のふたつのドグマ」というように、この類型の還元主義を採用する経験主義者(カルナップなど)であって、カントではない。そもそも、クワインは、アプリオリに綜合的な真理にかんして一度も言及していないし、28歳でやったカルナップ講義中に、クワイン以前の哲学者が否定してるから考慮しなくてええやろみたいなことを言っている。なので、51年から53年当時、まだカルナップら論理経験主義者の名声が翳りきってない頃合いに、カント的な哲学へ死亡宣告がおこなわれていても、クワイン「ふたつのドグマ」のおかげとまでは言えない(すでに死んでる)。現在でも、数多くいるカンティアンからすれば、なんで検討せんねや、で終わるはなしだと思われる。はなしはそれるけれども、sec. 4の終わりの方を読むかぎり、クワインは、分析的ということばといっしょになってないかぎり、アプリオリ性にかんしてとくに批判を加えていない。もちろん、クワインにとって、アプリオリ性単独で、なんの意味があるのかという問題にも触れてはいない。
はなしを戻して、「ふたつのドグマ」がカント的な哲学に終止符をうってくれるかどうかを考える。哲学史的に、カント以降のドイツ語圏の主要な哲学的潮流へ深刻な損害を与えたという意味合いだという可能性を考慮してみよう。カントからドイツ観念論、新カント学派、そして論理実証主義の系列(とくにカルナップ)はつなげそうではある。51年から53年当時でも、アメリカでは「ふたつのドグマ」やクワインにかんするあれこれは多かったと思うけれども、イギリスではそこまで多くないというか、ふたつのドグマ自体については、ストローソンとグライスによる56年の論文くらいしかめぼしいものもないじゃないか(ストローソンの「意味の限界」は66年なんすね… 知らなかった)。だから、論理実証主義者でアメリカに来ているものが有名な大学に所属してることを差し引いても、哲学史的な主張として、カント的な哲学が終止符をうたれたとは手放しでは言えなさそう。(ナチスが致命傷をあたえ、共産党が看取ったくらいのほうが正確だろう。クワインはせいぜい911にコールしたくらいかな)。アメリカでは死んだんねやと言い返されても、竹市編の「超越論的哲学と分析哲学」に所収されている論文をみればわかるように、終止符がうたれたにしては議論されてますね、とは思う。
かのひとの読書遍歴を邪推すれば、戸田山本かなんかを真に受けたんじゃないかと思うが、それでも、煽るならもっとうまくやってくれ。ちゃんとコミュニケーションとろうよ。せめて、「ふたつのドグマ」がカントを直接に相手取ってはないとは前置きをいれてほしいし、そもそも原題は'Main Trends in Recent Philosophy: Two Dogmas of Empiricism'なんだぞ! カントのどこがrecent philosophyなんだ……

【追記】
・「ふたつのドグマ」のなかにカントや超越論的哲学などのいわゆるカント的な哲学と相容れない主張はたくさんあるが、どれも、かれらの考えを崩すことを念頭に構成されていない。たとえば、アプリオリに綜合的な真理とか。そもそも、そういう目的ではないからあたまりまえである
・戸田山本がひっこしの関係でいま手元にないけれど、にたはなしがあったとおもう。ENのほうか、TDEかはわすれたが
クワイン現象学者に言及してるのを見た覚えがないので、知ってるひとがいたら教えて下さい
・つぎの文がミスリーディングなので注記を加えたい。

当該論文での目的は、「アプリオリ/アポステリオリ」と「分析/綜合」の外延が一致して、アプリオリに分析的な真理とアポステリオリに綜合的真理のあいだに厳格な境界がひけるときに、それを前提にして立論される還元主義を論難することにある

まず、ふたつの種類の真理のあいだの厳格な区分をこわして、つぎに、その区分を前提にする還元主義を退けるというながれで、「ふたつのドグマ」の冒頭でもそういっているので、この文はまちがいとは言いきれなくてもはてしなく親切ではない。
つぎに、「アプリオリ/アポステリオリ」と「分析的/綜合的」の外延が一致しているだけでなく、「必然的/偶然的」の外延も一致している。この3つの区分けがぴったり重なっているのが論理経験主義者の特徴で、フレーゲまで遡れるっぽい(そういう記述みるけど、フレーゲをまともに読んでないので典拠は知らないし覚えてない…)。