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ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

エピステモロジカル・リザレクション

あわれな哲学者たち――いまや論文を吐き出す肉塊――は、どのように存在論的に殺害されのだろうか。わたしたちは、1948年と1951年に公表された真理を考慮する必要がある。これらの真理を掲げる哲学者たちは、荒野の自然主義者どもと呼ばれている。こうした考えを持っていることと自然主義者であることのあいだには、まだすこし、間隙があるけども、こう呼ばれている。はなしを戻そう。
このふたつの年に公表された真理は、知識と存在にかかわる。まず、わたしたちの知識は、個々の知識それぞれでたしからしさを検証することができない。ということは、事実との一致をもって、それが確実な知識であることを決められないということだ。このとき、なにが知識であるかを画定するのは、かれらが指導原理と呼ぶ、いくらかの基準だ。その原理に導かれて、承認された信念が知識となる。もちろん、それらは知識であるがゆえに、すくなくともなにか存在するものに紐づけられている。その結び目を示す規格を、かれらは知っている。すなわち、ある理論のなかにある肯定的な言明を真にするために、なければならない対象が存在しているということだ。「真にするために」という言い回しに、今回の大量殺戮事件の鍵がある。
そう、かれらは次のステップを踏んで、あわれな論文製造器官を産み出した。そのために、存在論的に殺害されたある哲学者の名前をXとしておこう。「Xがいる」という知識を受け入れるならば、それを真にするために必要な実体が存在する。それは、肉のかたまりか、ヒトか。哲学者なのか。ここにつけ入る余地がある。悪意にみちた存在者たちが、指導原理に、「Xのような名辞を含みこむ信念を真にするためにヒトは必要ない」と吹聴したのだ。この哲学的に粗雑な操作で、はれてヒトとしての身分を存在論的に剥奪され、かれらは哲学者としての死を押し付けられた。歴史上、死を宣告された哲学はいくつもあれど、こんなにも軽やかに殺された哲学はない。どの哲学もしぶとく生き残る。
こうした経緯で死んでしまったとわかったからには、やることはひとつだけだ。指導原理どもに、逆のことを吹き込んでやればいい。その結果、いっそう高次の指導原理に、わたしたちの指導原理が矯正されることになるかもしれない。これが益になるかは知らないが、すくなくとも、わたしのしていることには益がある。