ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

無題

G. Kempが編集でだしてた某本にクワインの未公刊論文がはいってたらしいし、たぶん、そろそろクワインにかんする文献的な研究もかなりすすむんだろうなぁ(知らないだけで、かなりすすんでるかも)。そういう海外の情報をどうあつめたらいいのかよくわからないので、地道に本になってるものからしらみつぶしにしてるけれど、まだ行き当たってない。いやだなぁ。

文献案内:クワインについて

Ch. フックウェイの『クワイン』が復刊された。この著作は、クワインの没前に書かれている。おなじく、G. D. Romanos, “Quine and Analytic Philosophy”も没前。もうひとつ、R. F. Gibson, Jr.のThe Philosophy of W. V. Quineも忘れてはいけない。
クワインを概観したければ、没後の著作のほうがいいと思われる。たとえば、P. Hylton, “Quine”がかなり骨太で研究書でもあるけれど、内容的によい。特に、chap. 6 ‘beyond the observation sentences’は一読の価値がある。G. Kempの“Quine”もいい。個人的には、A. Orensteinの“W. V. Quine”がいちばん好き。M. G. Murpheyの“The Development of Quine’s Philosophy”も、Orensteinとおなじで、クワインの初期論理哲学に着目してる。というか、一番大切なのは論理哲学とかいいきっちゃうのちょーかっけー。
ぼくの知らないやつでいいものがあったら教えてほしいなと思う。丹治本は言うまでもないしあげない。
また、記事レベルであれば、P. Hyltonが“Brackwell Companon to Analytic philosophy”と、Stanford encyclopedia of philosophyに寄稿している。


【追記】(2017年10月15日)
・MurpheyはおそらくC. I. Lewisについての本を書いてるひとと同一人物。こういう量こなしてでかめの本書くのは、母国語話者で、外国に比べて資料にアクセスしやすいもろもろの環境があってこそで、うらやましい。ぼくも期が熟したら、大森とかやりたい
クワイン自身の著作であれば、“Pursuit of truth,” “From stimulus to science”が再晩年の外観的な入門書になっているが、しょうしょう記述が簡素な嫌いがある。基本的には、‘On what there is,’ ‘Two dogms of empiricism,’ ‘Reference and modality’が基本的な路線でそこからいろいろ派生してるとおもったら、全体を掴みやすい。

一切のことが流れていく

なんかよくわからないけれど、テキトーにタバコを買った。新宿と自由ヶ丘。二日の帰省の合間に。
新宿で買ったロバート・マッコーネルのザ・オリジナルスコティッシュフレイクは、バージニアベースで、ペリクとかケンタッキーがはいってるらしい。あまり、バペのようにペリクみを感じなかったから、あまり入ってないのかなと思う。自由ヶ丘では、マクレーランドのブラックシャグを買った。こちらはまだ吸ってない。ホームズに倣って隠してある。
ところで、この二日のあいだクワインを持ち歩かなかったから、すこしクワインへのテキスト的関心から離れたことを考えていたか。ファン・クリーヴ先生を読んでたのもあるかな。分析形而上学関連で、existenceとrealityがあまり区別されてないという話題がTLに上がってたのとか、クワインがカントの区別を誤解してるという批判とか。前者は、「なにがあるかについて」(1948)の影響下にあれば、そういうモチベーションがなくなるかもしれないななんて。後者は、クワインがカルナップらへんと共有してる前提をかんがみると、あながち誤解とは言えない。どちらにせよ、あまりよく知らないことだし、なにをちゃんと調べたらいいかはあてがあるけども、きっとちゃんとしらべない。
そういえば、ホームズがブラックシャグをスリッパの爪先に隠してたみたいなはなしの典拠も知らない。

攻撃プランは? パースだ!

きのうも読書会で徳をつんだ。なにをしても徳をつむので、これを書きながらも徳をつんでいる。いままでどれほどの徳をつんだかわからない。つんできたものからして、そろそろ認識的に完全になってほしい。
さて、C. Misakの‘Pragmatism and Deflationism’もいまやっていて、きのうの回で、3. The Prosntentialistをあつかった。代替文主義者と訳せばよいかの(訳語の基本は漢語なので、不用意なカタカナは死ぬぞ)。この立場は、引用符解除図式を基本理論にして、わたしたちの推論的関与(inferential commitment)を考慮する立場だ。前回やった、べつの縮減主義者の節といっしょで、結論は、「すべてがPになる」だった。
ミサックがおしすすめてるプラグマティズムは、パース主義的だし、2. The Disquotationalistでもやってたように、ジェイムズやデューイを切り捨てている。この点にかんして批判は多く、日本語であれば加賀先生の論文が同志社女子のレポジトリから読める。プラグマティズムとなんのことわりもなく、パースの意見しか取り入れないのをやめろと言いたいけれど、仕方がない。すべてがPになるんだから。

超越論大学観念論学部カント学科の悲哀

まえのエントリでもすこし書いたけど、いわゆる超越論大学観念論学部に所属してるので、「ラインホルト先生」と「頭はカント、おしりはショーペンハウアー、わたしはだあれ先生」にひたすらカントのはなしをされている。毎回、カント解釈がゴミと言われてるけど、学部のときからひたすらKrVのはなしをされてるにもかかわらず、明確にカントの解釈問題をあつかったことがない。
残念ながら、カント解釈とKrV本文は基本的人権形而上学的な必要用件にされてるらしく、わたしは基本的人権をもたない。基本的人権を獲得するために、あしきカント貴族を焼き討ちにして、自然主義的革命の名のもとにかれらを断頭台に送らねばなるまい。

あのゲームの名前なんだっけ…

ここ一ヶ月ほど、受ける授業授業で、カントを英語やらドイツ語で読んでいる(関心に一ミリもすらないあたりつらい)。基本的な事実とみなしてるものが違いすぎるので、モチベーションをまったく共有できなければ、ぼくの興味をそそるような話題に突っ込んでこない。
な の に、だいたいぼくの野望は、「いかにカントをちゃぶ台返しするのか」に帰着する。こっちは大嫌いでいつでも殴りたいのに、あいてがこっちを歯牙にもかけてないかんじで、これもつらい。

また徳を積んでしまった

きょうは、WiERED QUiNEという読書会だった。
都合とか、嘘みたいな機材トラブルなどもありメンバーに欠けが出てしまったので、クワインの翻訳検討を飛ばし、抱き合わせでいますこしずつ読んでるミサックの論文を読んだ。
さきほど書いた機材トラブルはぼくにも降りかかっていて、ミサックのレジュメがパーになったので、口頭でいろいろ話した。パース主義的なプラグマティズムと引用符解除主義についての節で、それと関連して、パースとジェイムズなどにも言及した。それぞれわからないところなどを持ちより、全体のストーリーを見通せるようになったと思う…
なんにせよ、原稿をもたないで、へらへらと全体の説明をしたり、質問に答えたりするほうが楽しい。余計なものがない分、お茶会っぽさがでる。モルダーが脚本を見ながら、怪奇現象について熱く説明しててもしまらない。