ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

哲学ってどこにあるの

哲学がなにかよりも、哲学という営為がどこにあらわれてくるかのほうが気になる。たとえば、文献研究をメインにして哲学をやり、哲学史に貢献する人間のなかに、だれだれの哲学ということば遣いをするひとがいる。こうしたことばから、「哲学はあるひとの思索のなかに現れてくる」とか、「哲学はあらゆるひとの思索のなかに現れてくる」とか考えていいのか。すなわち、あるひと、もしくは、あらゆるひとの思索のうち吟味に耐える部分が哲学と呼ばれるのか。あるひとの考えはそのひとのなかになければならないというのを考慮すれば、特定の哲学的思索がだれかのなかに現れてくる、だれかのものであるのは当たり前と言えるかもしれない。
でも、よく考えてみれば、わたしたちが哲学に触れる経路の大半は本だとか論文だ。だから、哲学が宿るのは文字列のなかだと考えるのはふつうのことではないのか。いくらプラトンが会話を主軸とした文字列を組織して、哲学を表現したからといっても、その対話篇は、かなりよく練られた文章であって、発話や考えだけではない。その所在はひとではなくて、紙の上だ。この場合、さきのだれだれの哲学ということばは、だれだれのなかに哲学があるのではなく、だれだれの書いた文章のなかにあるし、それがだれであってもよかったと解釈してもいいかもしれない。ただ書いたのがその人のものだったというだけで、名前を冠する権利をもらったにすぎない。著作権がだれかに所属することはあっても、哲学はだれか特定の個人に所属するものでもない。
しかしながら、たとえば、アウグスティヌスの思索が現代のわたしたちが思い付くようには思えない。というのも、かれがそのように考えなければならない環境が現代にもそのままあるわけではないからだ。すなわち、問題状況をわたしたちとかれではすっかり共有しているわけではない。それでも、そうした問題状況が実際的に特定の個人にしか生起しないと言えたとしても、哲学は特定の個人の部分でしかないという想定には反対したい。

所感:タバコ問題

わたしは倫理学にあまり明るくない。1948年とか、1951年、1953年、1960年のクワインほどにはわからないし、政策決定についてはいっそうのことよくわからないけれども、わたし自身よくタバコを吸うので、現状での飲食店での喫煙とか非喫煙者(とくに紙タバコの臭いが嫌いなひと)同伴での喫煙にかんして考えをまとめておきたい。
飲食店等での無制限な喫煙は、他者危害原則に抵触すると倫理学の題材としてよく議論されいると思う。これにかんしては、あまり異論はいし、他人とのかかわりが問題となっている。個人としてだけの問題としては、愚行権による正当化などがあげられるが、田上先生などはうまくいかないと著書で論じているし、グッディンはインフォームドコンセントの観点から正当化できないのではないかと論じている。こうした議論がただしいならば(もちろん専門家の意見なので圧倒的に論難できないし、わたしたちのクソみたいな直観はあてにできない)、喫煙者は、個人の行為として正当化できないものの、他者危害に抵触しない範囲での喫煙が可能かと問う必要がある。擬似的な、あるいは短期的な快楽のために実際の、あるいは長期的な快楽を犠牲にすることが社会的に許容されるか検討する路線だ。
個人的には、無制限な喫煙は許容されなくても、制限つきならばその可能性があるのではないかと思いたい。たとえば、喫煙可能な店舗だけではなく、禁煙の店舗もそれらと同等以上の割合で選択肢にいれられるとか、労働者を成人にかぎり合意をとりつける(すべての危害がある職場に合意を取り付けてもつけないとするならば軍人とかの危険度のたかい職につくこと自体正当化できないことになってしまう。現行の福島で行われている除染作業とかありえない)など。現時点だと、こういう状態は実現されていないので、喫煙席や喫煙可能店でも他人からやめてほしいなど頼まれたらすくなくともその場では吸わないなどの配慮は必要かもしれない。

追記
JAISTかなんかで全面禁煙になったというニュースがあったけど、大学とかは飲食店とちがってほかのところに行くとか、生活のなかでべつの禁煙してる大学にうつるとかかなりしにくいので、基本的に禁煙にしてしまったほうがいいとは思う。すくなくとも、建物やキャンパスの出入り口に設置してはならないのではないか。
・田上先生は、喫煙を愚行権として捉えることで、権利と見なせるか考察していた。もちろん、結果は芳しくない。喫煙者はわりとまじめに喫煙が権利かどうか考えるべき時機を得ている

ナンバー・ワン!

マックバレンのバージニアNo. 1を買ってみたので、さっそく詰めて吸っていた。とりあえず、アシュトンに詰めこんで火をつけてみる。レディラブドとシールが張ってあるとおり、すでにある程度ほぐれているものの、粗さ的には、ブルーノートとかマラードよりも粗いので、自分でも解す。そのお陰か、立ち上がりは悪くない。
吸ってるときのおともは何にしようかなと考えながら、Huluを眺めてたら、メンタリストを久しぶりに見たくなったので、字幕でつけた。ちょうど、シーズン1の終わりから視聴することになったので、ジェーンがむかし破滅させた男の息子に復讐される話を見ることに。男運の悪いヴァンペルトが犯人に利用されてちょろまかされたり、ジェーンの過去が小出しにされたりするなど、すこしビターなストーリー。パイプタバコと違って、立ち上がりもかなり早いし、ハラハラする終盤まである。
なのに、口のなかでは、ひたすらマイルド目なのにじゃっかん主張の強いタバコが文句をいっていた。オーリックほど甘味は強くないけど、イルステッズ・オウンほど、穏やかでもエレガントでもない。すこし今回吸うには中途半端だったかもしれない。ナンバー・ワンにはしてやれない。

40秒で支度しな

今年度に入ってからたいぶたち、すでに秋学期がはじまってしまった。生活のスケジュールもかなりかわり、それにともない生活の質もかわってきた。去年はパイプに火をいれるのがめんどくさいなと思いもしなかったはずだ。
パイプを吸うための用意にはすこし時間がかかる。まず、使いたいパイプを持ってきて、ひとしきり眺める。おいおいサラさんよぉ、いい丸みをおびてんじゃねえか、このタバコに火をいれてほしいんだろうとか邪な考えを持ちながら、タバコを決める。最近は、甘い着香よりも穏やかでコクがある感じのほうが好みかもしれない。ボウルに突っ込む前にフレイクをほぐして、ほぐす。ここまでにだいたい15分ほどかかる。そして、火をつけておさえながら、落ち着かせる。この瞬間に、信じられないかもしれないが、器用にスマホを操作しながら見る映画を決める。109分ほどのがベスト。はじまったなと思いながら、飲み物を用意して本格的にタバコをキメる。トータルで25分ほどだ。
残念なことに、こうした挙動を毎日生活には埋め込めない。思い立った瞬間に、まだ確定してないスケジュールを組み込みまくらないと、なかなかいろいろできないので、その点、パイプスモーキングは、確定的なスケジュールとして、生活に組み込んだほうがいい。わたしの指導原理はドーラの一声だ。だから、きょうもロブストサイズのシガーに火をつけて、つれてってくれと言いながら、コーヒーカップを見つめている。パイプは、ラピュタの王族にでもくれてやろう。

読みやすい哲学書の古典ってどれよ

某記事がアリストテレスの「論理学」(なるもの)とか、カントの「純粋理性批判」とかをオススメの古典としてあげていたけど、殺人衝動でもあるのか知らないけど、投げつけられたら死ぬような鈍器であるし、その記事でデカルトの「方法序説」を大著として逆張りしてる効果もないので、やめたほうがいいと思った。こうしたテーマについて自分であげるならなにをあげるのかも気になったのでメモ程度にあげていこう。
たぶん、プラトンの対話篇、しかも初期のおわりごろとか、中期のはじめをあげておくのは悪手ではないと思う。なんでかといえば、『プラトンを学ぶ人のために』の山口論文を読んでほしいけども、面白いし、教科書ほど飽きたりもしない。大切なことに、文庫版で数種類でてもいる。たとえば、「弁明」とか。
文庫があるかというフックも念頭におけば、デカルトの『方法序説』も悪くない。たしか、あれはパンフレットみたいなものだった記憶があるし、岩波現代文庫に手引きとなる本もある。
「序説」のように対話篇でなくても、いい本もあることからわかるように、対話篇ならなんでも言い訳じゃない。時代がくだるにつれ、山口論文で考察されているような理念はあまり見受けられなくて、じゃっかん説教臭い。たしかに、それぞれの哲学者はいりとしては見逃せないかもしれないが、デカルトの「自然の光による真理の探求」(だっけ?)のように未完でアクセスの悪いものもある。
それぞれの哲学者の入門として落とせないものだと、カントの場合、中公クラシックスに『プロレゴーメナ/人倫の形而上学の基礎づけ』などが解説もコミでいいかもしれない。
ぼくの専門にちかづくにつれ例をあげがたくなるが、「論考」だけはスキップしてもいいだろう。あれはよくわからん。古典として読むよりも入門書とか、手引き書を読めよというはなし。分析系は、そうじで教科書を読むのが吉。クワインも例外じゃない。もしかしたら、クリプキーはすすめてもいいかもしれないけど、アクセスがわるい。ただ、プラグマティズム関連だと、パースもジェイムズも岩波文庫に論文集が入ってるので、それはすすめてもいいかもしれない。デューイは訳が古くなるけど、文庫で著作が手にはいる。
たぶん、哲学専攻以外と専攻の下回生にすすめるものでわけて古典は考えた方がいいんだろうし、哲学専攻以外には、哲学史とかの教科書をすすめとくのが安全なのかなと思う。

【注記】
哲学書は、ふつうのことばすらもかなりテクニカルタームになっているので、そもそも読みにくいというはなしは脇においておこう。
・しょうじき、哲学一般は、古典から入るのに向いていないと思うようになったので、だまって教科書を読ませる/読んでみるべきだろう。なんで、読むべき古典をリストアップみたいな発想が理解できなくなってきた

乾いて、枯れるか。もうだめだ

学期中は、正直パイプをあまり吸わなかった。さいしょは何ボウルも吸ってたのに、大きめのパイプでひとボウル、そのうち、それを二日三日かけるようになった。さらに悪化して、置いてあるパイプが何日目かわからなくなる。それが5月の下旬くらい。それからは、週一ふつうのパイプでひとボウルかもしれない。原因は、わかりきっていて、行き付けの珈琲屋がやってるタイミングで家に帰って来ない、暑いからなにもしたくない、というか疲れて眠い、それでも翻訳間に合わねえし、教職なくなれなどだ。
だから、ゴールデンウィークに買ったロバートマッコーネルのオリジナルスコティッシュフレイクとか、マクレーのブラックシャグは放置してあった。その前に買ったタバコなんて目も当てられない。スコティッシュフレイクは乾くといってもたかがしれてるけれど、着香軍団は梅雨を乗りきれなかった。買ったときのほうが、ケンタッキーの華があり、イルステッドほどでないにしろ落ち着いたバージニアとあいまって豪奢でないにしろ、エレガントなタバコだった。いまとなっては、追い剥ぎにでもあったらしい。
ぼくも熱中症になってから、なんとなく調子でないし、実家に眼鏡忘れるしもうだめだ。

雑記(ふたつのドグマ関連)

調べものをしていて、ふたつのドグマにあるさまざまなモチーフのもとネタを見つけられそうになっている。そのなかのひとつに、むろんフレーゲとかもあるんだけど、デューイ系列のひとから影響受けてるっぽいのもあった(ただし、2nd edでは注ごと削除されていた)。いままでのクワインについてのイメージは、ジェイムズ⇒パース⇒デューイの順でなぞっていて、デューイに到達するのは自然主義関連のことをいいだす辺りかとおもっていたけど、もうすこしはやいかもしれない。こんど、デューイの年表とクワインの年表をならべたみたり、影響関係をWikipediaゲームのごとくたどるとおもしろそうだと思えた。