ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

文献案内:クワイン(単著編)

文献案内として、クワインについての単著からあげていこう。まず、挙げなければならないのは、Ch. フックウェイの『クワイン』だ。この著作は、かならずといっていいほど参考にされる名著であるけど、クワインの没前に書かれている。おなじく、G. D. Romanos, “Quine and Analytic Philosophy”も没前。もうひとつ、R. F. Gibson, Jr.の“The Philosophy of W. V. Quine”もある。Gibson, Jr.は“The Cambridge Companon to Quine”の編集者でもある。
クワインを概観したければ、没後の著作のほうがいいと思われる。たとえば、P. Hylton, “Quine”がかなり骨太で研究書でもあるけれど、内容的によい。特に、chap. 6 ‘beyond the observation sentences’は一読の価値がある。かれの学生であったG. Kempの“Quine”もいい。最初に哲学的方法論の観点から記述があるのは、これだけだろう。個人的には、A. Orensteinの“W. V. Quine”がいちばん好き。M. G. Murpheyの“The Development of Quine’s Philosophy”は、「クワイン? 知らないけどたぶん全部読んだよ」っていいそうなレベルの包括的な研究書。おまけだけど、Erkenntnisとかに論文のあるE. Beckerの“The Themes of Quine’s Philosophy”は、ある意味で、テーマ別のコメンタリー的なものになってる。最新の研究では、知らないひとはいないSander Verhaeghの“Working from Within”が直近ででている。いわゆる論文・著作以外も参照したクワインの研究書は、Murpheyを除いたらこれだけではなかったかな? Appendixにその一部がVerhaeghの手によってトランスクリプトされている。
日本人の単著としては、丹治信治の『クワイン』をあげなかったらモグリになってしまう。これは現代思想冒険者シリーズからでていたので、慣例にならって(自伝である“The Time of My Life”を下敷きに)クワインの生涯をなぞりながら、思想の紹介をしている。ほかには、‘Epistemology Naturalized’以降の自然主義について検討しているのが井頭昌彦の『多元論的自然主義の可能性』だ。
また、記事レベルであれば、P. HyltonがBrackwellな“A Companon to Analytic philosophy”と、Stanford encyclopedia of philosophyに寄稿している。


【追記】(2019年11月26日)
・MurpheyはおそらくC. S. パースとC. I. Lewisについての本を書いてるひとと同一人物。こういう量こなしてでかめの本書くのは、母国語話者で、外国に比べて資料にアクセスしやすいもろもろの環境があってこそで、うらやましい。残念ながら、去年逝去されたらしい。
・フックウェイは、クワインから、パースとかプラグマティズムに興味の方向をのばしていったらしい。こんどは、パース本の翻訳もでるらしい。学部のとき受けていた英書講読の宿題で読まされてたやつだと思うけど、ふつうにおもしろかった。
クワイン自身の著作であれば、“Pursuit of truth,” “From stimulus to science”が再晩年の外観的な入門書になっているが、しょうしょう記述が簡素な嫌いがある。基本的には、‘On what there is,’ ‘Two dogms of empiricism,’ ‘Reference and modality’が基本的な路線でそこからいろいろ派生してるとおもったら、全体を掴みやすい
・Greg Frost-Arnoldの“Carnap, Tarski, and Quine at Harvard”は、カルナップの資料が中心とはいえ、クワイン関連の単著として読む価値のあるものだと思う。

一切のことが流れていく

なんかよくわからないけれど、テキトーにタバコを買った。新宿と自由ヶ丘。二日の帰省の合間に。
新宿で買ったロバート・マッコーネルのザ・オリジナルスコティッシュフレイクは、バージニアベースで、ペリクとかケンタッキーがはいってるらしい。あまり、バペのようにペリクみを感じなかったから、あまり入ってないのかなと思う。自由ヶ丘では、マクレーランドのブラックシャグを買った。こちらはまだ吸ってない。ホームズに倣って隠してある。
ところで、この二日のあいだクワインを持ち歩かなかったから、すこしクワインへのテキスト的関心から離れたことを考えていたか。ファン・クリーヴ先生を読んでたのもあるかな。分析形而上学関連で、existenceとrealityがあまり区別されてないという話題がTLに上がってたのとか、クワインがカントの区別を誤解してるという批判とか。前者は、「なにがあるかについて」(1948)の影響下にあれば、そういうモチベーションがなくなるかもしれないななんて。後者は、クワインがカルナップらへんと共有してる前提をかんがみると、あながち誤解とは言えない。どちらにせよ、あまりよく知らないことだし、なにをちゃんと調べたらいいかはあてがあるけども、きっとちゃんとしらべない。
そういえば、ホームズがブラックシャグをスリッパの爪先に隠してたみたいなはなしの典拠も知らない。

攻撃プランは? パースだ!

きのうも読書会で徳をつんだ。なにをしても徳をつむので、これを書きながらも徳をつんでいる。いままでどれほどの徳をつんだかわからない。つんできたものからして、そろそろ認識的に完全になってほしい。
さて、C. Misakの‘Pragmatism and Deflationism’もいまやっていて、きのうの回で、3. The Prosntentialistをあつかった。代替文主義者と訳せばよいかの(訳語の基本は漢語なので、不用意なカタカナは死ぬぞ)。この立場は、引用符解除図式を基本理論にして、わたしたちの推論的関与(inferential commitment)を考慮する立場だ。前回やった、べつの縮減主義者の節といっしょで、結論は、「すべてがPになる」だった。
ミサックがおしすすめてるプラグマティズムは、パース主義的だし、2. The Disquotationalistでもやってたように、ジェイムズやデューイを切り捨てている。この点にかんして批判は多く、日本語であれば加賀先生の論文が同志社女子のレポジトリから読める。プラグマティズムとなんのことわりもなく、パースの意見しか取り入れないのをやめろと言いたいけれど、仕方がない。すべてがPになるんだから。

超越論大学観念論学部カント学科の悲哀

まえのエントリでもすこし書いたけど、いわゆる超越論大学観念論学部に所属してるので、「ラインホルト先生」と「頭はカント、おしりはショーペンハウアー、わたしはだあれ先生」にひたすらカントのはなしをされている。毎回、カント解釈がゴミと言われてるけど、学部のときからひたすらKrVのはなしをされてるにもかかわらず、明確にカントの解釈問題をあつかったことがない。
残念ながら、カント解釈とKrV本文は基本的人権形而上学的な必要用件にされてるらしく、わたしは基本的人権をもたない。基本的人権を獲得するために、あしきカント貴族を焼き討ちにして、自然主義的革命の名のもとにかれらを断頭台に送らねばなるまい。

あのゲームの名前なんだっけ…

ここ一ヶ月ほど、受ける授業授業で、カントを英語やらドイツ語で読んでいる(関心に一ミリもすらないあたりつらい)。基本的な事実とみなしてるものが違いすぎるので、モチベーションをまったく共有できなければ、ぼくの興味をそそるような話題に突っ込んでこない。
な の に、だいたいぼくの野望は、「いかにカントをちゃぶ台返しするのか」に帰着する。こっちは大嫌いでいつでも殴りたいのに、あいてがこっちを歯牙にもかけてないかんじで、これもつらい。

また徳を積んでしまった

きょうは、WiERED QUiNEという読書会だった。
都合とか、嘘みたいな機材トラブルなどもありメンバーに欠けが出てしまったので、クワインの翻訳検討を飛ばし、抱き合わせでいますこしずつ読んでるミサックの論文を読んだ。
さきほど書いた機材トラブルはぼくにも降りかかっていて、ミサックのレジュメがパーになったので、口頭でいろいろ話した。パース主義的なプラグマティズムと引用符解除主義についての節で、それと関連して、パースとジェイムズなどにも言及した。それぞれわからないところなどを持ちより、全体のストーリーを見通せるようになったと思う…
なんにせよ、原稿をもたないで、へらへらと全体の説明をしたり、質問に答えたりするほうが楽しい。余計なものがない分、お茶会っぽさがでる。モルダーが脚本を見ながら、怪奇現象について熱く説明しててもしまらない。

歩く、歩く、区切りなく歩く

遷都。平安京平城京のあとの都だったような、すずっと。東と西に別れて戦争。燃える。燃えたところで、変わらない。替わらない。将軍とやらが別荘を持つ。東西戦のまえにも監視役の居場所があった。きっとおなじ。いつまでも変わらないはずだったけども、ひさしぶりの遷都。東京に代わられる。さて、京都はかわったのかしら。たぶん、変わってない。かわられたのだけど。
ぼくにとって、京都は、今出川通り、御池通り、千本通りと、烏丸通りを辺にもつ四角形でしかない。小さい道もたくさんあるにしても、覚えられない。覚える必要もない。実家に住んでたときは、通学に使う電車や出掛けるときに使う電車の駅をぜんぶ覚えていた。移動の区切りをぜんぶ覚えていた。それなら、通りの名前を覚えていてもおかしくない。それでも、覚えられない。なぜなら、京都は四角形でしかなく、路線図ではないから。人生ゲームにコマとその名前や種類は必要でも、パックマンには必要ない。