読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ダメ太郎スマイル、深海日記

クワインを読むんだ

分析と線引き

分析哲学の特徴について考えていた。ぼくは、基本的に、分析哲学一般が持つ特徴を措定すること自体に懐疑的だし、そうした企みが成功すると思っていないので、精確には、多くのいわゆる分析哲学者の著述にある傾向と言うべきかもしれない。
ひとつめに、ある主題について、適切な議論を構成するといってもいいだろう。どうなふうに組み上げられてるかは、T. ネーゲルにでも聞いとけばいいだろう。
ふたつめに、こうした目的をなぜもっているのか。歴史的には、ラッセルを墓から叩き出すか、ドクターに頼んでターディスに乗せてもらい、ラッセルに会いに行けばヒントくらいはもらえるはずだ。ゼリーの塊は粉砕したほうが扱いやすいし、そんなもんつくるなというはなしだ。特定の立場を採用してなければできない議論と、そうでない中立的な議論がある。それらの線引き、その画定作業は領域にも波及するかもしれない。
こうした観点からなら、分析哲学者の傾向をそれなりに、考えられのではないかな。これくらいしか、クワイン分析哲学者であり、先行する分析哲学者の影響下にあり、後続する分析哲学者に影響したとのべる意義があまりない。

エピステモロジカル・リザレクション

あわれな哲学者たち――いまや論文を吐き出す肉塊――は、どのように存在論的に殺害されのだろうか。わたしたちは、1948年と1951年に公表された真理を考慮する必要がある。これらの真理を掲げる哲学者たちは、荒野の自然主義者どもと呼ばれている。こうした考えを持っていることと自然主義者であることのあいだには、まだすこし、間隙があるけども、こう呼ばれている。はなしを戻そう。
このふたつの年に公表された真理は、知識と存在にかかわる。まず、わたしたちの知識は、個々の知識それぞれでたしからしさを検証することができない。ということは、事実との一致をもって、それが確実な知識であることを決められないということだ。このとき、なにが知識であるかを画定するのは、かれらが指導原理と呼ぶ、いくらかの基準だ。その原理に導かれて、承認された信念が知識となる。もちろん、それらは知識であるがゆえに、すくなくともなにか存在するものに紐づけられている。その結び目を示す規格を、かれらは知っている。すなわち、ある理論のなかにある肯定的な言明を真にするために、なければならない対象が存在しているということだ。「真にするために」という言い回しに、今回の大量殺戮事件の鍵がある。
そう、かれらは次のステップを踏んで、あわれな論文製造器官を産み出した。そのために、存在論的に殺害されたある哲学者の名前をXとしておこう。「Xがいる」という知識を受け入れるならば、それを真にするために必要な実体が存在する。それは、肉のかたまりか、ヒトか。哲学者なのか。ここにつけ入る余地がある。悪意にみちた存在者たちが、指導原理に、「Xのような名辞を含みこむ信念を真にするためにヒトは必要ない」と吹聴したのだ。この哲学的に粗雑な操作で、はれてヒトとしての身分を存在論的に剥奪され、かれらは哲学者としての死を押し付けられた。歴史上、死を宣告された哲学はいくつもあれど、こんなにも軽やかに殺された哲学はない。どの哲学もしぶとく生き残る。
こうした経緯で死んでしまったとわかったからには、やることはひとつだけだ。指導原理どもに、逆のことを吹き込んでやればいい。その結果、いっそう高次の指導原理に、わたしたちの指導原理が矯正されることになるかもしれない。これが益になるかは知らないが、すくなくとも、わたしのしていることには益がある。

オントロジカル・ジェノサイド

この世は一変した。それというのも、かれらーー机上の殺人者どもーーが特定の哲学者たちを存在論的に殺害したからだ。その哲学者たちが書いてきた論文は、ある物体が運動、たとえば文字を書いたり、キーをタイプしたりした結果生じた、ただの紙束になったのだ。声主でなくなった物体の声をだれが聞くのだろうか。わたしたちは、ある思想が物理的な過程によってだけ生じてきても、信じないようにできている。風の音を魔王の声と信じていいのは男の子だけだ。
さて、無惨にも殺戮された哲学者たちの書いてきた論文が印刷所の雑音や、画面上のノイズに還元されたのならば、将に来たらんとする論文たち(ともはや呼ぶべきでない産業廃棄物)は、いったいどこへ行くのか。無論、投稿されるべきジャーナルにきちんと送信されてきている。まちがいなくホラーだ。この現象をエディターたちは理解できずに苦しんでいる。主なき声を聞きつづけるこのわたしも、かれらに理解されていない。しかしながら、どのようにしてかれらが存在のリストから抹消されてしまったのか解明するのがわたしの使命だと確信している。

無題

G. Kempが編集でだしてた某本にクワインの未公刊論文がはいってたらしいし、たぶん、そろそろクワインにかんする文献的な研究もかなりすすむんだろうなぁ(知らないだけで、かなりすすんでるかも)。そういう海外の情報をどうあつめたらいいのかよくわからないので、地道に本になってるものからしらみつぶしにしてるけれど、まだ行き当たってない。いやだなぁ。

文献案内:クワインについて

こんど、Ch. フックウェイの『クワイン』が復刊されるらしい。この著作は、クワインの没前に書かれている。おなじく、G. D. Romanos, “Quine and Analytic Philosophy”も没前。
クワインを概観したければ、没後の著作のほうがいいと思われる。たとえば、P. Hylton, “Quine”がかなり骨太で研究書でもあるけれど、内容的によい。特に、chap. 6 ‘beyond the observation sentences’は一読の価値がある。G. Kempの“Quine”もいい。個人的には、A. Orensteinの“W. V. Quine”がいちばん好き。
まだ読んでないが、M. G. Murpheyの“The Development of Quine’s Philosophy”も、Orensteinとおなじで、クワインの初期論理哲学に着目してるっぽい。
ぼくの知らないやつでいいものがあったら教えてほしいなと思う。丹治本は言うまでもないしあげない。

一切のことが流れていく

なんかよくわからないけれど、テキトーにタバコを買った。新宿と自由ヶ丘。二日の帰省の合間に。
新宿で買ったロバート・マッコーネルのザ・オリジナルスコティッシュフレイクは、バージニアベースで、ペリクとかケンタッキーがはいってるらしい。あまり、バペのようにペリクみを感じなかったから、あまり入ってないのかなと思う。自由ヶ丘では、マクレーランドのブラックシャグを買った。こちらはまだ吸ってない。ホームズに倣って隠してある。
ところで、この二日のあいだクワインを持ち歩かなかったから、すこしクワインへのテキスト的関心から離れたことを考えていたか。ファン・クリーヴ先生を読んでたのもあるかな。分析形而上学関連で、existenceとrealityがあまり区別されてないという話題がTLに上がってたのとか、クワインがカントの区別を誤解してるという批判とか。前者は、「なにがあるかについて」(1948)の影響下にあれば、そういうモチベーションがなくなるかもしれないななんて。後者は、クワインがカルナップらへんと共有してる前提をかんがみると、あながち誤解とは言えない。どちらにせよ、あまりよく知らないことだし、なにをちゃんと調べたらいいかはあてがあるけども、きっとちゃんとしらべない。
そういえば、ホームズがブラックシャグをスリッパの爪先に隠してたみたいなはなしの典拠も知らない。

攻撃プランは? パースだ!

きのうも読書会で徳をつんだ。なにをしても徳をつむので、これを書きながらも徳をつんでいる。いままでどれほどの徳をつんだかわからない。つんできたものからして、そろそろ認識的に完全になってほしい。
さて、C. Misakの‘Pragmatism and Deflationism’もいまやっていて、きのうの回で、3. The Prosntentialistをあつかった。代替文主義者と訳せばよいかの(訳語の基本は漢語なので、不用意なカタカナは死ぬぞ)。この立場は、引用符解除図式を基本理論にして、わたしたちの推論的関与(inferential commitment)を考慮する立場だ。前回やった、べつの縮減主義者の節といっしょで、結論は、「すべてがPになる」だった。
ミサックがおしすすめてるプラグマティズムは、パース主義的だし、2. The Disquotationalistでもやってたように、ジェイムズやデューイを切り捨てている。この点にかんして批判は多く、日本語であれば加賀先生の論文が同志社女子のレポジトリから読める。プラグマティズムとなんのことわりもなく、パースの意見しか取り入れないのをやめろと言いたいけれど、仕方がない。すべてがPになるんだから。